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連載 座談会 その2

福祉タクシー 経営維持には?
三星昭宏 近畿大学名誉教授 × 関淳一 全福協最高顧問(東洋タクシー社長) × 林明 朝自動車社長

2015年7月11日付・第337号

【大阪】福祉タクシーの経営維持には何が必要か。6月上旬、三星昭宏 近畿大学名誉教授。関淳一 全福協最高顧問(東洋タクシー社長)、林明 朝自動車社長により繰り広げられた座談会の模様を伝える第2回目。

    我われが福祉に取り組んだ40年前は、運転者は乱暴だったし、国は乗車拒否を取り上げてガンガンやられました。マスコミでは読売新聞から徹底的に叩かれました。

1970年の大阪万博が終わり、その2、3年後、昭和47、48年というのは、タクシーはゴロツキが運転するものだとさえ言われた。確かに、運転者は悪すぎましたね。お客さんに対し、「おい、にいちゃん」「おい、ねえちゃん」などということを、平気で言っていました。障害者が手を挙げていても見向きもしなかった。いや、逃げたのですね。

やはり我われは、そのようなことを無くそうと、盲人の方には手の平を型取ったプラカードのようなものをつくって、タクシー乗車の際にはそれを差し出すよう配布しました。しかし、そのプラカードを差し出しても止まらない。

たまたま、堺市の養護学校の先生がたと話す機会があり、そこに現在、朝日自動車の社長をしている林明氏らも参加していました。当時は障害児は個人タクシーが学校までの送迎をしていましたが、それには親が付き添わなければなりませんでした。

他に健常児がいる場合は、誰かに預けるか、学童保育に通わせなければなりませんでした。そのような状況を改善しようということで、我われのジャンボタクシーを利用してもらうようになった。我われは、タクシー事業者団体のタクシー振興事業団というのがあり、そこで新しい交通システムを考えていました。

当時は、大阪市立大学の伊勢田先生や中西先生、奈良女子大学の湯川先生など学識経験者に出席していただき、ジェットニ―キャブ構想について論議したりしていました。そのようなことを検討しながら、福祉の方は朝日自動車にやってもらっていました。

当時、林氏は労組の執行委員をやっていました。当時社長だった故伊藤政信氏と私が労組との団体交渉で福祉をやろうということになり、私と林氏が担当になったのです。林氏とは、その当時からの長い付き合いです。

タクシー車体の横にシンボルマークをちょう付し、「このタクシーの運転者は障害者への接し方などの教育ができている」とアピールをしました。この企画に参画したタクシーは全部で2000両に及びました。

大阪府立堺身障センターには、そのタクシーを常設で2両配置しました。だから、そのようなことをして福祉への対応が広がっていきました。やらなかったところは別として、やったところは反響があり、タクシーが市民へとだんだんと染み込んでいきました。

三星  それは何年ごろでしたか?

    取り組みを始めたのは、昭和48、49年でしたので、実施したのは昭和50年ごろでした。昭和45年に大阪万博がありましたが、タクシー乗り場を巡回していると、運転者は障害者をまったく相手にしません。乗車拒否が横行していました。

万博に来ている海外の障害者は、自分で渡航手続きをして来ているので、その点では健常者と何ら変わりません。ところが車椅子でタクシーに乗ろうとすると、逃げられてしまう。それが私の目に焼き付いていました。

そのように乗車拒否が横行している時代は、タクシー事業に携わる私でさえ、タクシーに乗るのが恥ずかしいとさえ思うようになりました。タクシー事業を真面目にやっている他の事業者さんもそう思っていたと言っています。ただ、言葉づかいの悪い運転者が目に付く一方、目立ちませんでしたが、しっかりと対応できる運転者はいました。

昭和39年の東京オリンピックでも、45年の大阪万博でも、お客さんが多いですね。そうなると、どうしても運転者の対応は横柄になる。そんな状況がしばらく続いていましたが、「このままではいかん」と、昭和48年に事業者、労組、学識経験者でタクシーの近代化委員会を設立して、新しい交通システムをつくりました。

ワゴン型の9人乗りの大型タクシーを、大軽タクシーはキャラバンタクシー、朝日自動車はジャンボタクシーと命名しました。それまでは、個人タクシーを個々の家庭で使っていましたが、それは無駄なことなので、1両で同時に何人も輸送できるようにしたのです。

それから25年経過した平成12年の堺市との契約書を見ましたが、マイクロバスを16両、ジャンボタクシーを25両ほど。計40両で年間2億5千万円ほどの契約内容となっています。

    契約先は堺市の障害者施設や、当時は養護学校と言っていましたが、今で言う支援施設です。

当時はセダン型の一般運転者でも、車椅子を見ていても、見て見ない振りでした。障害者は手間がかかるということもあったでしょうし、他のお客さんが町に溢れていたということもあったでしょうが、どちらかと言うと乱暴な運転がまかり通っていました。

その時に、学識経験者と経営者と一緒になって、交通弱者のための福祉タクシーというものをやっていこうということで、車椅子を借りて、折りたたみ方の講習をするなどで各営業所を回りました。

その組織を関社長につくっていただき、私は現場を回る。そうした中で、堺市で障害を持った子供さんたちが通園している施設や小学校に行っているお母さん方の悩みを聞く場を持とうということになりました。

その時に先生が言われたのは、鉄道やバスは、決められた路線しか走らないが、タクシーはドアツードアで重度の障害がある子供に対しても家の前まで来てもらい、学校や施設まで送ってもらえる。通園、通院の一つの交通機関として、協力してもらうことができないか、ということでした。

その時は「あ、そうか。重度の障害者が困っているのだな」という程度の感覚で懇談会へ行きました。知的障害を持った子供との懇談でしたが、その子の親が「この子と、何回一緒に死のうかと思ったか分からない。この子さえ死んでくれたら、また新しい子供を産んでしあわせな生活ができるのに」とか、「お医者さんに、『もう命、限界ですよ』と見放されても学校へ行かせたい、という親の気持ち、分かってくれますか」と言う。

タクシーの運転者の仕事として行った初めての懇談の場で、そんな悩みまで言ってくれました。「交通の問題で相談へ行ったはずなのに、障害者の悩みをそこまで受けることができるのだろうか」と最初は気持ちの上では少し尻ごみもしました。

ところが、だんだん話し込んでいくうちに、「あっ、これは避けて通れないな」という気持ちになりました。当然、最初はそんなに会社は利益が出るはずもありません。これは全面的なバックアップがないとできない。ジャンボタクシーができたのと同時進行で、車椅子に乗ったまま乗降できるリフト付きでワゴン車を開発して、それが認可されるまでになりました。

大阪府立堺身障センターというのがありまして、障害者のための訓練施設と病院が併設されているときに、平和タクシー(後藤光男社長)さんとともに、赤字覚悟で常設して、重度障害者の方で普通のセダンで乗降困難な方が、車椅子に乗ったまま乗降できるリフト車を何とかつくろう、という意気込みで開発を始めたのが、ようやく実ったのです。

(次回に続く)