《人気コラム》
植田耕二氏著「ハイタク記者半世紀回想録17」

「いろいろな人たちとの出会いや別れ!」

2011年10月24日付 第182号掲載

このコラムに、二回にわたってバス、タクシー業界に関係ないことを書いてきた。筆者が記者生活に入る前段のことを読者に知っておいてもらおうと思ったからである。

もう一回、同じようなことを書いて、この話は終わりにしたい。同時代者なら分かってもらえると思うのだが、前号に書いた『近代文学』同人たちのものにたどり着く前段では、共産党系の『新日本文学』の中野重治や花田清輝の熱心な読者だった。中野が参院議員に立候補したときには三輪車のバタコーに一緒に乗って、京都をはじめ滋賀を走り回り、三日間ほど寝泊りをともにしたことがある。

詩人の中野重治は言葉にうるさく、「その連呼の仕方はダメだ」とか、中野を紹介する文句に「イケナイ、イケナイ」を連発されて、なんどもお説教を食らった。「ああ、そうか」と、20歳前後の筆者には大変いい勉強になった。

後年、筆者は共産党中央委きっての理論家・神山茂夫の強い影響を受け、いわゆる神山派といわれるグループの研究会に出るようになった。神山茂夫が京都にくれば、京都大や同志社大、立命館大などの講演会につきっきりで、神山の先導役を喜んでやっていたものである。神山が亡くなったときには、中野重治から「神山茂夫とお別れ会」のご丁寧な案内状が自宅に来てビックリしたことがある。

遠い昔の話だが、会社の連中に「おーい、中野重治から手紙をもらったよ」と、その案内状を自慢げに見せたものだ。中野重治が筆者の自宅を知っているわけがないが、神山と手紙のやり取りをしていたので神山の奥さんが筆者の自宅の住所を中野に教えたに違いない。結局、お別れ会には、仕事の都合で余儀なく出席できなかった。

神山が亡くなる前、花田清輝が編集長の時代に『新日本文学』が資金繰りに行き詰まり、針生一郎の筋から資金カンパの要請を受けて「金150万円也」を寄付したことがある。

バス、タクシーの専門紙を出し始めて間もなくの頃。筆者の懐ぐあいもあまりよくない状況下での150万円は、それなりにシンドイことだった。しかし、驚いたのは新日本文学会からお礼と称して山本太郎などの油絵とパステル画2枚が、筆者に送られてきた。

そのうち筆者が敬愛してやまない吉本隆明が花田清輝と激しい論争を繰り広げ、筆者を驚かせた。吉本は花田の影響下にあった『現代詩』にも詩を書いていたので、関係読者に大きな反響を呼んでいた。

筆者は、これを機会に『新日本文学』と完全に縁を切り、この稿のはじめに触れた『近代文学』の読者に移行していったのである。(以下次号に続く)