《人気コラム》
植田耕二氏著「ハイタク記者半世紀回想録15」
「アンタはやっぱり極左時代の党員だった!」
筆者は、半世紀に近いバス、タクシー専門紙の編集・発行人として生きてきたが、読者には若かりし頃、日本共産党の党員として活動していたことを完全に伏せてきた。
読者には、事業経営者が圧倒的に多いことや広告スポンサー、執筆者などのことを考えると、そのことを公然化することは事業維持のマイナス要因になることを予知していたからである。しかし、本社事務所を北区神山町から浪速区大国町の「全自交会館」に移転してから、読者や広告スポンサーも「ひょっとしたら彼は共産党」と予感する人たちが出てきた。
前々号で、サーさんこと三菱タクシーの笹井寛治氏を「お宅の副社長」と呼んだことのある全自交大阪地連の岡本頼幸書記長には、お酒を飲んだ席などで筆者の党活動体験などを話していたかもしれない。
1950年の党分裂では当時の徳田球一書記長の党主流派に反対、宮本顕治らの国際派に属していた筆者は、党を除名されたが共産主義運動の国際組織コミンフォルムからの指示命令で自己批判して復党した。そうして当時の党の方針に従って火炎瓶闘争や山村工作隊の活動に参加していった。
当時、徳田球一、野坂参三ら共産党幹部らはマッカーサーによる公職追放令によって政治活動を禁じられたため、革命に成功した毛沢東に助けを求め中国に亡命。後を任された臨中指導部の椎野悦郎らは極左的な冒険主義の戦いに突入していった。真面目な党員だった筆者は、この極左冒険主義の闘争にも躊躇せず入っていった。
宮本顕治は、中央委員会が解体状態だったこともあって除名はまぬかれたものの党組織から疎外され、もっぱら宮本百合子全集の編纂の仕事に取り組んでいた模様だ。
やがて運動は行き詰まり、六全協と称せられる共産党の全国協議会で、極左冒険主義の全面的な自己批判が行われた。50年に筆者が受けた除名処分は取り消された。しかし、極左的な党活動の自己批判を強く求められたものである。
10代半ばから共産党活動に参加した筆者は、30代近くになって、ようやく共産主義運動に大いなる疑問を感じ、離党することを決断した。生活のカテにするため交通専門紙の発行することになったものの、本社を「全自交会館」に移したことによって完全に党と縁を切ったことにはならなかった。
わが家に残っていた「球根栽培法」という極左時代の非合法出版物を岡本書記長に見せると、「やっぱりアンタはあの当時の党活動家だったんだ」と言い党へのカンパを求めるし党機関紙の購読を求めるという始末だった。(以下次号に続く)