《人気コラム》
植田耕二氏著「ハイタク記者半世紀回想録14」

「業界人にけったいな思いさせた? 父の葬儀」

2011年9月26日付 第178号掲載

サーさん、サーさんと書いているがこのコラムを始めて読む読者は、どこの誰かは解らないだろう。大阪に本社を置く旧三菱タクシーグループオーナーだった笹井寛治氏のこと。いまグループ各社を一本にまとめ社名も「株式会社未来都」となっている会社の創業者だ。筆者はサーさんが城東交通や大安交通を合わせて、社名を三菱タクシーに変更するときにも相談を受けた。「タクシー王」とか「多田天皇」と呼ばれていた相互タクシーの多田清氏を乗り越えられる社名を考えた末、三菱タクシー株式会社を考えたに違いない。

筆者は「きっと三菱のご本家筋から抗議がありますよ。やめといたほうがいいと思います」と答えたが、サーさんは「揉めたら揉めたでいいじゃない。相手が天下の三菱。相互の多田とはスケールが違う。現に三菱鉛筆があるじゃない。三菱鉛筆は三菱グループとは、ナンの関係もない会社のはず」と言う。筆者に話があったのは、すでに三菱タクシーに社名変更を決断していた後のようだ。社名変更して間もなく三菱グループ本家筋から異議申し立てを受けたが、サーさんは「断じて変更しない」と言う。案の定、法廷に持ち込まれることになった。

話をサーさんから助言や援助を受けて行った筆者の親父の葬儀に帰す。葬儀は、筆者の生まれ故郷である京都・宇治で行った。当時、筆者の実弟のSクンやワイフの親戚筋のOクンたちがバス、タクシー、トラック各業界の事務局や幹部筋に葬儀日程などを通知。多数の業界関係者に参列していただくことになった。実家の町内会の人たちも多数参列願ったのはもちろんだが、異様だったのは筆者が10代の頃から戦列に加わった日本共産党の幹部。中央委員であり関西地方委員会の委員長だった山田六左衛門、中央委員候補だった原全五など錚錚たる面々がかつての仲間たちを引き連れ参列してくれたことである。

記憶が曖昧だが六さんらは当時、宮本顕治などの支配から出て新しい組織を作っていたかも知れない。往年の忠実な党員だった筆者を、それなりに評価して親父の葬儀に参加してくれたものに違いない。しかし、参列者の多数の交通業界幹部や町内会の人たちは、筆者の前歴を知らないものだから一種異様な雰囲気を感じたようである。

すでに筆者は、共産党の組織活動から離別し、政治の世界に一定の距離を置いて必死に生きていた。交通業界幹部らには、筆者が、かつてそういう世界に深くかかわってきた人間であることを伏せていただけに、素朴なおつきあい感覚で参加していただいたこれらの人たちには、けったいな思いを与えてしまい本当に申し訳ないと感じた次第だった。(以下、次号に続く)