《人気コラム》
植田耕二氏著「ハイタク記者半世紀回想録12」
「サーさんとウーさんは同じ隣組の生活者!」
当時、筆者は枚方の香里団地に住んでいた。2LDKの狭い部屋で本の置き場もない生活に耐えられず、もう少し大きな住処はないかと家を探していた。そこに京阪電鉄が枚方樟葉の沼地や田圃を埋め、大きな住宅ゾーンをつくろうとしていた。出来上がるや否や、第一次販売を予告する広告が出た。それを見て直ちに買い受け申し込みをした。
申し込みは販売件数の何倍かに達し申し込みの後、抽選が行われた。その抽選に当たり筆者は自宅を確保した。先に書いたサーさんこと笹井寛治氏は直ちに祝いを持ってきてくれた。「ウーさん、あんたもこれで一人前。良かった、良かった」と喜んでくれた。そして大阪で飲んだあとタクシーで樟葉の自宅まで送ってくれるようになった。当時、笹井氏は城東区で米の配給時代からの米屋を営んでいた。
タクシーがうまく軌道に乗り出した後、サーさんは次々にタクシー会社を買収、大阪業界の新興勢力の代表的存在となっていった。米屋はいつの間にか廃業。ある日、例によって大阪市内で飲み樟葉まで送ってくれた後、わが家で飲み直したとき「ウーさん、俺も樟葉に住もうと思う。土地探しに協力してよ」と言う。「またナンで。あんたには立派な家があるじゃない」と言うと、「いや、あんな家は古い、古い」と言う。その頃、京阪電鉄専務になっていた元京阪タクシー社長の重松徳氏に「こういう人が樟葉にいい土地がないか探しています。土地を譲ってやって欲しい」と頼むと「解った。植田君はぼくの友人。樟葉の土地を探している。いいところを世話してやって」と部下に命じたのだった。
こうしてサーさんは、樟葉の高台の一等地に約200坪の土地を確保。まもなく見事な洋館を建てた。こうして筆者とサーさんは同じ隣組の生活者になった。立派な自宅を建てたお次は、この間亡くなった笹井良則クンのお見合いだ。わが家で飲んでいると、サーさんは「ウーさん、ちょっと頼みがあるンだ」と言う。「俺の家の応接間を知っているだろう」「知っていますよ。立派な応接間」といったやり取りの後、「あなたの応接間にある本の一部を少し貸してよ。お見合い相手がわが家に来ても、わが家の応接間には本が無い」と言う。筆者は若かりし頃、左の運動に深入りしていたため思想・哲学・文学関係の本も左翼の知識人が書いたものばかり。
「こんな本をあなたの家の応接間に並べたら、なる話もなりませんよ」と言ったがサーさんは承知しない。筆者の子供のために買った漱石全集や鴎外全集でも貸そうかと思ったが、考えた末止める事にした。貸してよ、貸さないで筆者とサーさんの中は、少しひび割れが生じたようである。(以下次号に続く)