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植田耕二氏著「直球・曲球」
「幸夫人の『関目に遺体休ませて』無視」
前号では、相互タクシーの多田清社長を60年にわたって支え続けた幸夫人が、夫の臨終に立ち会えなかったことを書いた。多田清氏の臨終に小野親子氏のほか、医師や関係者が多数病室周辺にいたにもかかわらず、幸夫人には「なぜ知らせてくれなかったか」との思いが強く残った。
多田氏は19日朝には小康状態を取り戻した。木下健三氏らはいったん大阪に帰る予定だったが、幸夫人が勝山に来て以来、疲労から発熱したため勝山に残留、結果的に自分たちの父親の臨終に立ち合うことになった。小野氏らの思惑からはずれ「予定外」だった。予定外と言えば多田氏が19日まで「頑張った」こともだ。
関係者によれば、多田氏の主治医は16日の時点で「完全にサジを投げていた」と言われ、もしその通りになっておれば幸夫人も木下氏らも臨終には間に合わず、遺体をめぐる混乱もなく、完全に小野氏側のペースで葬儀まで運んだと思われる。多田氏の遺体をめぐる病院と小野氏らの動きは、幸夫人らの予想を超えたものだった。 臨終の報に接し直ちに病室に駆け付けた幸夫人は「ぜひ大阪に連れて帰りたい」と求めたが小野氏らはこれを拒否。「ただ一晩でも」と懇願するなか突如、病室に医師らが入り、多田氏の遺体を室外、さらに病院玄関まで運び出した。既に霊柩車が来ており、霊柩車は幸夫人の絶叫を完全に無視して遺体を車に乗せてしまった。
これを目の前で見ていた大橋一夫氏は機敏に自分の車を霊柩車の前に止め、これを阻止。約1時間現場は混乱した。この間、木下氏らが抗議し結局、精一氏と幸夫人と「1対1」で話し合いが行われた。精一氏が主張したのは、一言「父の遺言」であったという。幸夫人は「それはいい。ただ、その前にほんの少しだけ関目で遺体を休ませてほしい」と主張。しかし、高齢で昨年大手術を行ったうえ16日以降の徹夜状態。直前に発熱などしており、最終的には医師が幸夫人を「ドクターストップ」。ついに関目に二度と足を踏み入れぬまま、遺体は二重の意味で「不帰の人」となった。(次号へ続く)