《人気コラム》
植田耕二氏著「直球・曲球」

「ドンの死に立ち会えず」

2011年8月1日付 第171号掲載

「タクシー王」の名をほしいままにタクシー業界に君臨していた多田清氏にも臨終のときがやってきた。

危篤の報が多田幸夫人に伝えられたのは1991年7月16日の夕刻だった。幸夫人は直ちに勝山市内の病院に駆け付けた。

17日早朝には相互タクシーグループの関係者、神戸相互タクシーの木下健三社長、堺相互タクシーの黒田司郎社長、泉相互タクシーの堀内崇夫社長、三国相互タクシーの清水万太郎社長、比叡山観光タクシーの安居早苗社長らが次々に到着した。多田清氏に最後の別れをと、看護に当たっていた小野親子氏に申し入れたが「病状に影響」を理由に医師団から病室への入室を拒否された。その間も小野氏や小野氏の弁護士らは自由に病室に出入りしており、これをとがめた堀内氏らが「医師の責任を追及するぞ」と強く抗議した結果、翌18日夕、多田清氏の子息である木下健三氏と大橋一夫氏らがようやく「一人ずつ」という条件で入室。5分足らずではあったが対面を許されたのである。

しかし、入室に当たっては「誓約書」への署名を求められ「大声を出さず医師の指示に従う」「マスコミには漏らさない」ことが条件に付され、これに違反した場合には「損害賠償を請求する」と記されていたという。関係者によると、小野氏らが懸念したのは入室を認めることで現在、子供としての「認知」を求めて争っている木下氏らの立場が有利になることを怖れた結果だった、といわれる。木下氏らは「そんなものを使わなくても(認知の)立証はいくらでもできる。裁判では一切(入室の件を)使わない」と約束。ようやく入室を果たしたようである。

多田氏の死は「19日午後5時1分」と関係者に公表されているが、幸夫人は病院内の「控え室」にいたにもかかわらず、その場に立ち会えなかった。控え室の幸夫人に「臨終」の報が入ったのは、15分後の5時16分。あわてて病室に向かったが、多田氏と対面した時は周囲に配されていた医療器具やコード類はすべて撤去され、遺体もキレイに整えられていたという。(以下次号に続く)